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下田野の不確かな伝承

角山山頂から望む下田野

 

 


角山を望む

前山の中腹に西福寺が

あったそうです

 

 

旧大日神社上岩上から望む皆野町

(ねころび岩)

 


1.たかくら様の大ケヤキ

(田野屋裏)

昔の話です。ここに大きなケヤキがありました。切り倒したところ、荒川の対岸まで届いたとか?中島沢川、ナカゾリ(田野定好様)辺りがほんとのところでしょうか。それにしても大きなケヤキです。このケヤキの枝で6個の臼が作られ、その1つが我が家の臼と聞きました。もう一つの臼の所在も確認できます。この言い伝えを聞いたときは4個迄は教えられた気がします。場所は縄文時代の遺跡の上。60年くらい前には大きな杉の木があり、お稲荷様が祭られてました。

2.オボンブチ


ノボットから荒川沿いに道池、ヒトウチバシに続く旧道があります。

道池の下流側数100m程のところにオボンブチがあります。オボンブチは水たまりですが、その水で産湯に浸かると丈夫に育つという言い伝えがあるのだそうです。(元教育委員会の高橋孝久氏が持田作夫さんから聞いたとか。また、持田優さんもこの水で産湯に浸かったと母から聞いたそうです。)この水たまりは甌穴といわれるもので最近までは石碑があったと聞きます。

3.道池

昔、道池にはシジミがいました。道池の荒川側ウマレブチ(馬洗い淵)へ続く道の傍らにも池があり、チョッコカジカがいました。

4.ウマレブチ(馬洗い淵)

もう60年にもなりますが夏は水泳ぎの場所です。親が2人浮き輪をもって子供たちの監視委員を務めます。時々、小学校の先生が来て子供たちの様子を見てました。上の子供たちは三沢川と荒川の合流地点です。

5.トンビ岩

道池の近くにあり、てっぺんには1m程の穴があります。岩の上から

丸い水面が見えます。オウケツとか言われ珍しいとのことです。


手前はゲットクイワ奥がトンビ岩、スイジンダッポ、ナカンガワラ、白滝河原、クルマダッポへ続く

6.橋の元


昭和30年代頃まででしょうか。大きな杉丸太を2本、それに小さな木を藤つるで絡め足場板を渡し冬季の間のみ橋をつくっていました。

ボヤマルキに橋を対岸の人たち(上長瀞)が作っていたとのことです。

両岸には玉石とコンクリートで出来た基礎が今も残ってます。

クルマダッポから荒川が直角に曲がり瀞場に続く地点で、いい釣り場です。春のマヤ、夏の鮎、秋は大きな雑魚が集まってました。

7.白滝河原

長瀞の瀞場の上流です。秩父にダムが作られ土砂の流入がなくなり河床が下がってしまい玉石を見る事が少なくなりましたがここには、まだ玉石があります。上流部にはナカンガワラ、スイジンダッポ

がありました。今はその面影はありません。ここには大きな緑泥片岩の高さ3m程の大きな石があります。この石に子供のころ必死で登って遊んだものです。名前がわかりませんクジラ岩なんていかがでしょうか。

8.シカリ

下流から望む                                                            上流から望む
下流から望む  上流から望む

 ヒカリかもしれません。水深が4.5mもある深い淵です。上級者向けの泳ぎの場で岩のてっぺんから飛び込むのですが7mもある場所から飛び込んでも足はつきません。私はボートッビでも飛び込みできませんでした。郡上八幡の橋から飛び込む子供の遊びそのものです。冬になると雑魚やセイタンボが集まり、長い竿に針を7,8本付けたサクリというひっかけで大人たちも遊んでました。水難事故もあり、ちょっと怖い淵です。

9.ウサギの口

田野沢と荒川の合流地点です。

雨が降り川が増水すると小さな田野沢川は荒川より早く澄むことが多いのです。そうすると川魚がここに集まります。荒川の本流の急な流れを避けて集まるのかもしれません。夏は荒川の水温が上がりますが田野沢の水は冷たいので合流部にはマス類が集まることもあるのです。春から秋にかけては子供たちの良い釣り場でした。

10.ウサギの淵

ウサギの口から20m程上流(田野沢川)に2m程の滝つぼがあります。荒川が増水して、この2m程の落差が解消されることがあります。

そうするとアユや荒川の本雑魚が田野沢橋まで遡上してきます。夏の子供たちの良い遊び場です。

11.川の遊び

主に釣りですがウサギの口から橋の元迄でよく遊びました。アオヤ、セイゴは中学生以上でしょうか。ボッカン釣り、あんま釣り、毛ばり釣り、籠釣り、転がし、サクリ、置き針等。川の増水の程度でも釣り場を変えました。漁師ではありませんが本雑魚(ハヤ)の産卵期にマヤをカクといって産卵床を作って集まった魚を投網で一網打尽に取ってました。農家の囲炉裏には麦わらを束ね串に刺した魚が吊るしてありました。荒川が増水した時の濁りの程度をササ濁り、ボタ濁りといい、中岩が隠れた。シカリを回った。隠れた。で増水の量を共有できました。ボタ濁り、シカリを回るほど増水した時、スクイ網で魚を捕るのです。秋口のスクイ網ではアユが狙いです。ナマズやフナ等も取れました。これは子供の遊びではなく大人の遊びです。この増水の程度なら此処と決まっており、夜も懐中電灯で捕ってました。今では考えられないほど危険な漁です。遊びではなく川魚漁だったのでしょう。投網にアユが入るとキュウリの臭いがしました。投網する親父の後を魚籠を持って付いて行くのが子供の楽しみでした。セイゴ淵、アオヤはアユ釣りのポイントがありました。長瀞の舟下りの船頭さんと喧嘩をしないで済む場所です。セイゴ淵には大きなモクレンがあります。水が川底から吹き上げて来るのです。吹き上げて来る場所があれば、引き込まれる場所もあり注意が必要でした。鳴門の渦潮の川仕様です。

12.頭を西に向けた岩

下田野は荒川の右岸に位置してます。長瀞を含めたこの地域の変成岩は東西に傾斜を持ち西側が高いのです。川遊びでは対岸は足を滑らせ川に落ちることがあるのですが下田野側では滑らずに遊べました。また田野沢川左岸には下田野の地下水がこの傾斜のため湧き出してました。昔は田野沢橋近くでは冬湧き出した水で大きな氷柱を作ってました。

13.田野沢橋付近の滝

滝といえるような急な流れの岩場と淵があります。明治の20、30年頃の話と思われますがこの急な流れを遡上してきたノウメンズ(ウナギの幼魚)を箸でショウギに弾き込んで取っていたと言うのです。

荒川が海に繋がっていたころは沢山の多種の魚が秩父迄遡上してきていたのでしょう。昭和30年代には私も田野沢でノウメンズ釣りました。

普通の魚は此処の滝を登れません。上流にも魚がいますが、ある種、魚止めの滝です。ここより下流は荒川の魚が生息してました。アユもここまでです。湧き水のある此処の滝つぼにはイワナ、ヤマメが夏の間集まっていました。大人たちはガラス箱と引っかけでアユを追い回して夏の暑さをしのいでました。

夏は田野沢いたるところに蛍がいました。タモ網などありません。竹ぼうきを持って出かけ、蚊帳の中に放して遊びました。草の中で光っているのは蛇の目だ。草むらには入るなと親から注意をされました。

 

橋のすぐ下の淵は七夕が終わるとその飾りを近所の人たちが持ち寄り流してました。流し雛とか昔から清める川、水だったのでしょう。

淵いっぱいに七夕飾りが積まれる景色がありました。

14.車(屋号)の水車

戦後、昭和30年前でしょうか。田野沢橋近くに水車があったようです。台風で流されてしまったというような話を聞いてます。今でも大きな玉石を積んだ石垣が残ってます。

15.マサキリ淵(マサカリ淵)

深い淵です。周囲が木で覆われている為に青い色をしてました。子供の頃、夕方にここに釣りに行こうとすると近くのお婆さんに「河童がいる」からと窘められたものです。ちょっと怖かった。その昔は田野沢橋に関はありませんでしたので、もっと大きかったという年寄りの話す景色が想像できました。

また、淵の東側のぐずれた穴には白い大蛇が住みその穴は赤城様に通じているとか?これも新たな伝説が生まれました。

私の子供の頃は、ギンタはいましたが、昭和30年初頭まではテングッパヤもいたと聞きます。生態系微妙に変化しているようです。

16.万年橋

ここには、古い田んぼの取水堰があります。水路は旧いずみ館の前を通り赤城様をぐるっと回って中道に続く水路が残ってます。その後関は上流部に移され万年橋で田野沢をくぐり、より広範囲に水路を巡らせ田野中に田んぼを作ることが出来たのです。万年橋の下にはちょっとした淵がありました。川ネズミがいました。毛に空気を纏い青白いその姿は奇麗でした。

17.オオゲの水車

今の田んぼの取水堰の上流数百メートルのところに道路の対岸側ですが水路跡が残ってます。たぶん取水堰あたりに水車があったのでしょう。大きかったと聞きました。

 

持田作夫宅前の沢、谷草の

小島宅下の沢にも小さな水車

があったと聞きます。

 

 

ここから取水した水で下田野一帯の水田の水を満たしていました。

18.岩坂のクヌギと赤城様のクヌギ

この2カ所には大きな根っこがあり、カブトムシ、クワガタムシ、カナブン等を捕まえに子供たちが集まりました。フエンドウというスズメバチのでかいやつから逃げ回り捕ってました。

その道下には大きな淵があります。岩坂、ネッコマグソ、谷津田、大曲、そして谷草の集落へ続きます。

 

昔の道は山側にあり坂道だった

のかもしれません。道を川側に

曲げて平にし、坂道を解消した

のかもしれません。

そして岩坂が残りました。

ここまでが1番耕地。

19.ゴミっつるべに石っつるべ

田野沢でバカザッコ釣りの定番の餌です。ゴミっつるべは蓑虫の水生版です。ほんとによく似てます。石っつるべは枝や棒を小石に変えたものですが。荒川のクロカワ虫程グロテスクではありません。水の中の石をめくって取ったのが川ムカデ、5cmくらいありました。確かにムカデに似てましたが置き針の餌にしてました。

20.荒川での魚釣りの餌

ウマレブチ、ナカンガワラ、スイジンダッポ、白滝
ウマレブチ、ナカンガワラ、スイジンダッポ、白滝

ピンチョロ、クロカワ虫、チョロ虫といったかな平べったいやつ。石をめくって捕って肩の当たりに付けといてあんま釣りしました。

メメンタロウは定番ですが川が増水した時かな?秋になるとトウモロコシの虫で深場ねらいです。大きいのが釣れました。春先、カジカのアワ子

を取り、塩漬けにしておいて秋、針に真綿で包んでセイゴに行くんだよ。でかいのが釣れるからと年寄りに言われました。

21.荒川橋梁

セイガブチ上流から望む
セイガブチ上流から望む

大正3年竣工ということです。地元と鉄橋のかかわりについて聞いたことは、上(カミ)の女氏はレンガを洗いに出たと聞きました。レンガの強度を上げる為に藁を燃焼させたか、運搬の際に藁に包んだのかわかりませんが地元が誘致をしたり、地元に還元したりしたのでしょう。

2番耕地、3番耕地の区割りを切り裂いた線路。文明開化かな?
2番耕地、3番耕地の区割りを切り裂いた線路。文明開化かな?

22.西福寺

西福寺正面
西福寺正面

今のお寺は昭和30年頃に立て替えられました。本堂の格天井には田野素鳩さんの画かれた絵が組み込まれてます。立派なものです。素鳩さんは襖絵等も多数残し、あんどん祭りのあんどん絵も横田(橋元屋)さんと手分けして書いていたと聞きます。

西福御前の墓
西福御前の墓
光明真言塔
光明真言塔

「生を得て世に功なく・・・夢ぞ今宇宙に飛ぶ」辞世の歌だそうです。

用土新左衛門、西福御前からの

伝承が残ります。もともとは前山にあったと聞きます。赤城神社の行燈祭りは西福寺が始まりといわれ、祭日は春彼岸の三月十九日でした。

上は以前のお釈迦様木彫りのお姿でした。本堂の格天井には素鳩さんの画かれた絵が組み込まれてます。鮮やかな色彩が健在です。
上は以前のお釈迦様木彫りのお姿でした。本堂の格天井には素鳩さんの画かれた絵が組み込まれてます。鮮やかな色彩が健在です。

明治15年皆野に大火があり大淵から始まった火事は皆野、三沢、東秩父そして、戻って下田野の上半分を焼いたと聞きます。この時の火事で西福寺も消失したのだそうです。西福寺の入り口に梅の古木がありますがこの火災での消失を免れ、火傷を負いながらも生き延びて今年もたくさんの花をつけてます。そういわれて眺めればこの辺りで一番の古木です。

23.赤城神社

赤城大神社は大山祇命、大己貴命、豊城入彦命の三柱をお祭りした神社で秩父庄司重忠が社殿を造営して、境内に多くの木を植えたといわれます。赤城神社には大きな木が沢山あります。昭和の台風で多くの木が倒されました。重忠檜といわれるような木はありませんが楓、杉、アベマキとかいう大きな木があります。

 

子供の頃はよい遊び場でした。そりや竹馬そして、大きな木の洞に巣をかけた鳥の雛なども捕っていました。神楽殿の下にはアリジゴクがあり、蟻を落として遊んだのですがウスバカゲロウとかアリジゴクとは言わずテッコハッコと呼んでました。

掌の上をバックしていくテッコハッコ、こそばゆい感じを覚えてます。

子供の頃は神様が近くにいて弓矢を作って子供たちが競ったものでしたが年寄りに神社に向かって矢を射るなと咎められました。

今はこの大行灯変わってます。25年以上前の大行灯。上が今の大行灯
今はこの大行灯変わってます。25年以上前の大行灯。上が今の大行灯

前山道
前山道

現在は、大行灯5基、行灯約400が赤城神社の春の例大祭の折には火が灯されます。

赤城神社前旗竿
赤城神社前旗竿
上組の旗竿につく獅子頭立派な 彫り物で
上組の旗竿につく獅子頭立派な 彫り物で
上組前山の旗竿
上組前山の旗竿

この旗杭基礎には大正時代の年号が記載されてますが県道が整備された時、前山道側に旗杭ごと移設されたと聞きます。

 

旗杭基礎は大正2年

荒川橋梁竣工大正3年

旗は3,4番耕地で昭和3年に作る。作者は田野素鳩です。

今は無き御旗
今は無き御旗
田野屋前T字路に立っていた旗。竿は公会堂の軒下に収納してました
田野屋前T字路に立っていた旗。竿は公会堂の軒下に収納してました

赤城神社の小道。この田野沢よりに赤城神社をとり囲むように水路が残ってます。取水口は万年橋。

現在は、万年橋のところの田野沢の川底を水路が通り皆野町スポーツ公園まで流れてきます。

アベマキ
アベマキ

24.忠魂碑の桜


井戸の大手の桜の子供だと聞きます。白鳥村の下田野また、天神山の下の小学校まで通った時代もあり井戸、岩田といった地域とのつながりが強い時代がありました。

25.二本木峠の相撲大会

東秩父、三沢、白鳥村とかいう集落が集まって昭和の初期の時代でしょうか相撲大会が開かれたということです。二本木峠に行くのに新作出口から尾根づたいに平草経由だったということです。

26.竜ヵ谷城でのササラ(獅子舞?)

数年前までお稲荷様が祭ってありまし��た
数年前までお稲荷様が祭ってありました

竜ヵ谷城跡にはお稲荷さんが祭ってありましたが三沢の人たちが城跡の広場でササラを踊っていた。谷津田にいると笛や太鼓が聞こえてきたといいます。

北条氏の土のお堀を想像させます。
北条氏の土のお堀を想像させます。

27.オンダシガワラ(押ん出し河原)

荒川と三沢川の合流地点です。二つの川の増水の加減で河原の形状が変わりますがこの辺りでは大きな河原で現在は長瀞の舟下りの出発地や駐車場に利用されてます。下田野から親鼻に通じる旧道は一旦この河原に降りたようです。秩父事件の風布組は此処で警察隊に遭遇し、逮捕されたということです。

親鼻の渡しでは困民党と憲兵隊との銃撃戦があったり、金崎村の永宝社(銀行類似会社)を困民党が襲ったりしたとのことです。秩父事件の2年前には皆野の大火があり地元も生活に困窮していたのでしょう。歴史の1舞台になったオンダシガワラもいい感じです。

28.中岩とイズイシ(白石)

中岩とイズイシ対岸がカマンド
中岩とイズイシ対岸がカマンド

中岩はアユ釣りや泳ぎの遊び場です。また、荒川が増水した状況を把握するのに中岩が出てきます。中岩が隠れたといえば地元では荒川の増水状況を把握することが出来、どこに行けば魚が捕れる迄把握できたのです。中岩のすぐ下流にイズイシがあります。白く丸い岩ですが大水が出ても流されることなくずっとここにあります。白滝河原にもう一つ動かない岩があります。馬や牛の背中に見えないこともありませんが名前は知りません。

29.カマンド

中岩の対岸近くの下流(荒川左岸)にカマンドと言われる淵があります。上流にはタカンドと言われる淵もあります。古い古い言葉が残っているのかもしれません。

30.セイガブチ(セイゴブチ)

モクレン(淵のそこからもりあがってくる水の流れです)や渦の流れのある怖い淵でした。でも大きな魚がいました。トウモロコシの虫がいいとか?春先に取ったカジカのアワ子を塩漬けにしておいて真綿に包み針に釣るのだそうです。イワナ、ヤマメがいたのかな?

セイガブチから上流から望む
セイガブチから上流から望む

31.アオヤ

夏はアユ釣り、下流の深場は置き針、秋口の台風で増水した時はスクイ網で落ちアユ狙いでした。大水が出る予想ができるときはあらかじめ下草を刈り、魚を沢山捕れるよう準備する人までいました。今では考えられませんが、漁業が生活を支えてきた時代があったのです。

32.大日神社(旧社殿)

5月8日大日様のお祭りです。

昔は小島家のずっと奥にありました。小島さん宅が登山口でした。その後、谷草の人たちが里の近く迄、降ろしてきたのです。

現在は5月5日

猫のお札を求めて新潟から来られた若い女性とお会いしたことがありました。

33.赤城神社の鳥居

明治23年(1890年)庚寅の年
明治23年(1890年)庚寅の年

私の好きな鳥居

林道の拡幅でここに移設されました。
林道の拡幅でここに移設されました。
登り旗は江戸時代、近隣の人たちの名前があります。
登り旗は江戸時代、近隣の人たちの名前があります。

34.谷草の天王(八坂)様・薬師様

谷草集会所の脇に鎮座してます。
谷草集会所の脇に鎮座してます。

谷草の人たちは大日神社のほか天王様(八坂神社)、薬師様をお祭りしてます。

薬師様 小林昭夫宅上、町道上
薬師様 小林昭夫宅上、町道上

35.谷津田のカラフトブチ

カラフトブチ、名前に惹かれます。秩父が知知夫の頃からでしょうか。麦わらの束を1束浮かべて遊んだ記憶があります。

谷草では深場です。
谷草では深場です。

36.ニヨット岩(夫婦岩)

昔は岩が2つあったそうです。

東さん青木さんの家の間を川に降りて親鼻へ続くのが古い道。

明治17年秩父事件の時、風布の衆は此処を通り金崎や皆野を目指したのかもしれません。ほんの150年前です。

37.新作橋

この橋を渡りハギノソリから下三沢、平草へと続く古道です。

昔、ハギノソリを越えて三沢の豆腐屋さんが谷草に来ていたとか?

新作には屋敷と呼ばれるところがあるとか。

龍ヶ谷城に関係するのか解りませんが。

38.マサキリ淵の上の橋

39.コゼキ橋

今はありませんが昔の旧道。隣組、耕地の付き合い。人の往来を支えた下田野の大動脈でした。

 

大水が出て田野沢の水が押し戻され、度々流されるのです。

40.岩戸橋

名前が好きです。向井は土京お諏訪様です。北条、武田も橋を渡り1番乗りを目指したのか。それとも岩戸が開いてアマテラスがお出ましになったのか。いい場所です。

41.ドウドウブチ

三沢川を代表する淵です。荒川の合流部に近く、生息する魚類は同一です。

42.デンキリブチ

キチクドウ(鬼畜道?)近くにあると聞きましたが場所がわかりませんでした。これまた、いい名前です。その先を知りたくなります。

43.戦場高橋近く

下田野から戦場、三沢へ続く道

橋が掛けらなければ杭を打ち込みピョンピョンと渡ったとか、ハネックイドというそうです。

44.シンブチ 三沢川と荒川の合流部近く

下田野橋付近
下田野橋付近

45.琴平神社(旧社)

近年、赤城神社の境内にお祀りされ、奇麗な社殿になりました。山伏の姿やオテングサマいろいろご存じなのでしょう。お疲れ様でした。

ここからだと根古屋城も天神山城も見通せるが龍ヶ谷城まで行くと天神山が見えないとか?ここは狼煙を上げた場所と聞いた気がします。

氏子が集まり解体工事が行われた時には東、霜田の名前の記載された刀(木製)がありました。昔、信仰がそこにはありました

 

この参道にも行灯が燈されて居りました。


旧琴平神社跡に石碑を設けました。

46.薬師様(水上家管理)

47.供養塔(小島家管理)

琴平神社に奉納されている天狗の面に関係する碑です。

 

「谷草、平草、能林行って帰って(戻って)狸穴」

 

という言葉を耳にしました。小島家のご先祖は天狗の面を担いで霊場百八十八カ所を三年かけて巡礼し、その後この供養塔を建てたのだと聞きました。

また、その時、近在の人たちを集め7日間の祝宴を開いたのだとか?その時に生まれた言葉かもしれません。

48.下田野公会堂

昔、昔は酒蔵があったとか?手前にあるのは井戸、酒蔵の名残と聞きます。学校だったり養蚕施設だったり。私の子供時代は託児所でした。

49.荒川洪水の碑(持田優宅管理)

1859年(安政6年)7月25日に洪水は此処迄来たと伝える碑があります。この洪水は滝沢家土蔵床上50㎝迄浸水したと伝えられてます。

今の県道長瀞・玉淀線を超える水位です。

50.井戸波久礼、人打ち橋付近


今は、トンネルができ人の往来は少なくなりました。車が行き来する道でした。葉に隠れての道。

鉢形城の処刑場があったとか聞くと車でも夜間は怖く感じました。

 

新緑や紅葉の奇麗な場所です。

51.下田野の小字 柳井戸

小字名で柳井戸というところがあります。柳が生えている場所はこの地では珍しいことです。(写真は峰岸栄宅)ここは近くに三沢川がありますが、飲料水の確保は難しい地形です。見つけた柳の木の根元を掘ったら水が出たということなのです。井戸と柳があります。

52.琴平神社

近年、愛宕山から移し祀られた

琴平神社です。

 

鳥居は愛宕山から氏子に依り担ぎ下ろされ再び設置されました。

 


大きな木々に囲まれ厳かな雰囲気に包まれています。

53.前山の旗竿

2004年頃 神社境内から旗竿を運び出します。

 前山まで運ばれ旗竿が建てられます。

現在は旗竿の寄進があり上記の光景はありません

ただ、小ぶりに過去された旗竿と獅子頭が残され当時をしのぶことが出来ます。

54.大正3年

大正3年という年

秩父鉄道の荒川橋梁が完成し、初代の親鼻橋が竣工しました。近くで次々に大事業が行われていたのです。

 

 

僅か数百メートルの距離で鉄道橋、道路橋か掛けられ秩父が様変わりしたと考えると驚きです。

 

 

 子供の頃初代の親鼻橋のレンガの橋脚が爆破解体された記憶があります。

 

荒川橋梁の建設中の写真、手前が下田野、対岸が上長瀞。

荒川が増水すれば、足場は簡単に流れます。ここで作業していた人たちは数百m上流の親鼻橋の建設を見ていたのかもしれません。


 

 この写真の裏書には大正3年、5月と書かれています。

親鼻橋が大正3年8月竣工とあります。8月には荒川橋梁の橋桁も繋がっていたと想像できます。


 

写真左下には屋形船が数隻見えます。荒川の舟下りが既に始まっていたということでしょうか。屋形船を仕立てて工事現場の視察でしょうか。若葉の季節、華やいだ雰囲気が感じ取れます。

 

 

大正3年は第一次世界大戦参戦、東京駅開業そんな年です。

地元は、秩父の人たちは何を夢見たのでしょう。

 

 

 


 

マサキリ淵の白蛇続編

 


マサキリ淵に住む白蛇の穴は赤城様に続くと話をすると、ある方から日光の神様と赤城の神様の話に通じると言われハッとする。戦場ヶ原だ!神様の戦い。


青く深い河童が住むといわれるこの淵を怖がらせる話かと聞いていましたが面白い、話が進んだ。確かに赤城様の祭神は大己貴命(大国主命)豊城入彦命(蝦夷征伐をした)が祭られている。この地を訪れたヤマトタケルが豊城入彦命も祀れといったのだとか。

 

カラフト淵

 


谷津田にはいくつかの取水堰があります。蝦夷の言葉かもしれません。アイヌ民族の言葉では川の河口に関わる言葉だと聞きます。(AIの回答です)新作出口の上流から田野沢右岸(大曲下)を流れ、田を潤しカラフト淵の近くで再び田野沢に合流したのです。



山から流れ出る幾つかの沢と取水堰が谷津田の田を潤したのです。田野沢に面する大きな石積みも立派です。水路を造り、石垣を積み、田を作る。時代は幾つかあったのかもしれませんがカラフトブチの名が今に残る理由が解った気がしました。谷津田の田野沢両岸には立派な石積があります。日々の糧を得ることの重さを感じます。


 

姨懐(オバフトコロ)という小字名


姨懐という字名がありますが「谷津的なくぼ地」「奥まったくぼ地」等を表しているとか。理解できる地名になりました。現在の有料道路の上部辺りを指している小字名です。


近くに祢津木株という字名があります。漢字4字が珍しいですが祢という字は神様に関わる事のようです。津は川を渡る場所とか。昔、向谷津田に川を渡るための丸太が3本渡してありました。向井谷津田下流の田野沢が曲がる場所にも取水堰がありました。今は、野生動物が行きかう谷津田ですが、人々の暮らしを支えてきた場所です。


地元でネッコマグソと言う場所があります。名前の由来は解りませんが面白いです。イワサカ(=ネッコマグソ)、大曲、谷草です。字名では大曲の次は山神です。谷津田の右岸には神様が居られたのかも知れません。


イワサカがネッコマグソという俗称を持っていました。何か面白い出来事があったのかもしれませんがここまでです。(谷草集落の3人にその場所を尋ねてみました。)大曲が切通しであったことも30年も経てば忘れてしまいます。

 

 

新田開発と百足


 秩父で稲作が行われてきたのは横瀬や下田野が古いと聞きます。


河岸段丘などに代表される地形で稲作には適していないのだと。下田野では前山に近いところは山からの湧水があり、表層近く迄、変成岩があり水をためた湿地がありました。


長瀞町の岩田の由来と同じです。家でも上(かみ)の田はヒルがいて田植えの時期は嫌でした。下田野の田んぼの真ん中に中道がありました。おそらく中道から下流が新田開発されたところで、水源は田野沢です。確かではありませんが、田野沢からの水路を引く際、百足のはった後に水路を設けたら水が流れたのだとか。


万年橋から赤城様をぐるっと巻いて古い水路が中道まで続いていました。ムカデの話ホッとします。怖い怖いムカデ、やっぱり赤城様です。昔の人々の余裕、機知、いろいろ感じます。


道路と赤城神社の間に水路赤城神社脇



森下の水路



赤城山近くでは「ムカデ、ムカデ赤城に帰れ」というそうです。ここは「赤城さま、赤城さま」と言って殺処分。



赤城大神社の鳥居と百足



赤城神社の鳥居には百足が描かれていると聞きましたが確認はできませんでした。明治23年(1890年)庚寅の年に作ったと拝殿の額に記されています。


唐破風の下辺りに描かれているのかもしれません。

 

群馬県館林市の赤城神社には百足の彫り物が沢山あるそうです。


 

 これが百足を表しているように見えますが



 


田野素鳩氏について


本名は一衛、明治21年(1888)白鳥村下田野で生まれた。若くして絵画を黒沢墨山に彫刻を大島皆山に更に漢学と書道を金崎の山田静修に師事した。成人してからは寺子屋で青少年に教え育成に力を入れた。



さらに、27歳より没年までの間に28年の永きに亘り町、村会議員に就任し地域社会に貢献した。


第2時世界大戦中の一時期、東京に移住していたが、戦後は郷里より岐阜、愛知、長野方面に出向いて画業を行う。


晩年は郷里に定住して後進の指導と絵画の執筆を行った。三沢の二十三夜寺、当所の西福寺、長瀞の宝登山神社社務所の格天井は、その頃のものである。著書に「大正礼儀作法」 「佐久間象山」がある。



昭和35年(1960)73才で没した。その、いまわのきわに辞世の歌を残した。

「生を得て世に功なくいたずらに刻を過ごして夢ぞ今宇宙に飛ぶ」

(文・・・田端籐次)


 

 

 

 

 


西福寺の格天井

大行灯絵


田野素鳩氏の子や孫が大行灯の絵を描きました。龍や虎が長く下田野行灯祭りを照らしていました。

 

↑田野素堂氏

 

 ↑田野茂樹氏↓

 

猫のお札と大日神社



少し前です。5月5日の祭りに猫のお札をいただきに新潟から来た若い女性お二人にお会いしたことがあります。



猫のお札は珍しいのだとか。大日神社のお祭には福引が行われ、今でも5月8日、大日神社と書かれたブリキのバケツが家にあります。



御神燈料を納めて、いただく御神燈守の包みの中に猫のお札があります。



いわれを尋ねると養蚕をしていた時、ネズミが繭を引いていかないように猫のお札を頂いて帰るというのです。生活を支えた養蚕、そして、猫のお札です。

 

当地では、昭和40年代頃迄、養蚕が盛んに行われ、蚕棚の間に布団を敷いて寝る。蚕が桑の葉を食べるザワ、ザワという音を覚えてます。春子、夏子、秋子、晩秋、晩晩とか言いました。お蚕様です。お子様です。


 

小正月は繭玉を飾りました。農家は家自体が養蚕の為の小屋です。そして、豊作を願った大日様。猫の役割は変わったのかもしれませんが残したいお札です。



御神燈守の包みの中にもう一つ、竹に付けられたシデのようなものをいただきます。宮司に聞くと畑の隅に立てて豊作を祈願するのだと。これと似たものを西福寺の施餓鬼法要の時、塔婆と一緒にいただきます。


青、赤、黄色、白があります。やはり、畑の隅に立てます。生活の中に神様、仏様が居りました。


写真に御神燈の行灯がありますが大日神社の参道に6、7個の行灯が飾り付けられております。かつて金毘羅神社が愛宕山の山頂に祀られていた時も同様に行灯が燈されており、行灯というだけで親しみを感じます。


 

谷草集落の人たちの信仰


大日神社の他にも谷草の人たちには信仰があります。


夏は八坂神社で無病息災、2カ所の山の神様をまつり、そして、薬師様を祀る。しかも赤城神社の氏子であり西福寺の檀徒でもあります。



 山の神の字名の由来となったと想像する山の神様

 

↑八坂神社

 

山の神様(小林昭夫宅近く)

道路脇、沢沿いの岩下に祀られています。気高く、凛とした山の神様です。

 

 

 

 薬師様↓


西福寺の花祭り

5月5日は西福寺の花祭り。昔は5月8日でした。学校帰りお寺に寄り、甘茶をいただくのが楽しみでした。


 

午前中は谷草の大日様にお参りし文化会の若い人や子供育成会と子供たちは竜ヶ谷城まで登り午後から花祭りです。副住職の法話や紙芝居で楽しいひと時を過ごします。


 

「天上天下唯我独尊」

 

 庫裡の小屋組みは太く曲がった梁で支えられ、古い木造建築です。本堂の天井は素鳩さんの極彩色の格天井。

 

 

古い庫裡での法話や法宴、貴重な経験です。

 


下田野行灯祭りデジタルアーカイブ

 

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