
下田野の不確かな伝承
角山山頂から望む下田野


角山を望む
前山の中腹に西福寺が
あったそうです

旧大日神社上岩上から望む皆野町
(ねころび岩)
1.たかくら様の大ケヤキ

(田野屋裏)
昔の話です。ここに大きなケヤキがありました。切り倒したところ、荒川の対岸まで届いたとか?中島沢川、ナカゾリ(田野定好様)辺りがほんとのところでしょうか。それにしても大きなケヤキです。このケヤキの枝で6個の臼が作られ、その1つが我が家の臼と聞きました。もう一つの臼の所在も確認できます。この言い伝えを聞いたときは4個迄は教えられた気がします。場所は縄文時代の遺跡の上。60年くらい前には大きな杉の木があり、お稲荷様が祭られてました。
2.オボンブチ


ノボットから荒川沿いに道池、ヒトウチバシに続く旧道があります。
道池の下流側数100m程のところにオボンブチがあります。オボンブチは水たまりですが、その水で産湯に浸かると丈夫に育つという言い伝えがあるのだそうです。(元教育委員会の高橋孝久氏が持田作夫さんから聞いたとか。また、持田優さんもこの水で産湯に浸かったと母から聞いたそうです。)この水たまりは甌穴といわれるもので最近までは石碑があったと聞きます。
3.道池

昔、道池にはシジミがいました。道池の荒川側ウマレブチ(馬洗い淵)へ続く道の傍らにも池があり、チョッコカジカがいました。
4.ウマレブチ(馬洗い淵)

もう60年にもなりますが夏は水泳ぎの場所です。親が2人浮き輪をもって子供たちの監視委員を務めます。時々、小学校の先生が来て子供たちの様子を見てました。上の子供たちは三沢川と荒川の合流地点です。
5.トンビ岩

道池の近くにあり、てっぺんには1m程の穴があります。岩の上から
丸い水面が見えます。オウケツとか言われ珍しいとのことです。

手前はゲットクイワ奥がトンビ岩、スイジンダッポ、ナカンガワラ、白滝河原、クルマダッポへ続く
6.橋の元

昭和30年代頃まででしょうか。大きな杉丸太を2本、それに小さな木を藤つるで絡め足場板を渡し冬季の間のみ橋をつくっていました。
ボヤマルキに橋を対岸の人たち(上長瀞)が作っていたとのことで す。
両岸には玉石とコンクリートで出来た基礎が今も残ってます。
クルマダッポから荒川が直角に曲がり瀞場に続く地点で、いい釣り場です。春のマヤ、夏の鮎、秋は大きな雑魚が集まってました。
7.白滝河原

長瀞の瀞場の上流です。秩父にダムが作られ土砂の流入がなくなり河床が下がってしまい玉石を見る事が少なくなりましたがここには、まだ玉石があります。上流部にはナカンガワラ、スイジンダッポ
がありました。今はその面影はありません。ここには大きな緑泥片岩の高さ3m程の大きな石があります。この石に子供のころ必死で登って遊んだものです。名前がわかりませんクジラ岩なんていかがでしょうか。
8.シカリ

ヒカリかもしれません。水深が4.5mもある深い淵です。上級者向けの泳ぎの場で岩のてっぺんから飛び込むのですが7mもある場所から飛び込んでも足はつきません。私はボートッビでも飛び込みできませんでした。郡上八幡の橋から飛び込む子供の遊びそのものです。冬になると雑魚やセイタンボが集まり、長い竿に針を7,8本付けたサクリというひっかけで大人たちも遊んでました。水難事故もあり、ちょっと怖い淵です。
9.ウサギの口


田野沢と荒川の合流地点です。
雨が降り川が増水すると小さな田野沢川は荒川より早く澄むことが多いのです。そうすると川魚がここに集まります。 荒川の本流の急な流れを避けて集まるのかもしれません。夏は荒川の水温が上がりますが田野沢の水は冷たいので合流部にはマス類が集まることもあるのです。春から秋にかけては子供たちの良い釣り場でした。
10.ウサギの淵

ウサギの口から20m程上流(田野沢川)に2m程の滝つぼがあります。荒川が増水して、この2m程の落差が解消されることがあります。
そうするとアユや荒川の本雑魚が田野沢橋まで遡上してきます。夏の子供たちの良い遊び場です。
11.川の遊び
主に釣りですがウサギの口から橋の元迄でよく遊びました。アオヤ、セイゴは中学生以上でしょうか。ボッカン釣り、あんま釣り、毛ばり釣り、籠釣り、転がし、サクリ、置き針等。川の増水の程度でも釣り場を変えました。漁師ではありませんが本雑魚(ハヤ)の産卵期にマヤをカクといって産卵床を作って集まった魚を投網で一網打尽に取ってました。農家の囲炉裏には麦わらを束ね串に刺した魚が吊るしてありました。荒川が増水した時の濁りの程度をササ濁り、ボタ濁りといい、中岩が隠れた。シカリを回った。隠れた。で増水の量を共有できました。ボタ濁り、シカリを回るほど増水した時、スクイ網で魚を捕るのです。秋口のスクイ網ではアユが狙いです。ナマズやフナ等も取れました。これは子供の遊びではなく大人の遊びです。この増水の程度なら此処と決まっており、夜も懐中電灯で捕ってました。今では考えられないほど危険な漁です。遊びではな く川魚漁だったのでしょう。投網にアユが入るとキュウリの臭いがしました。投網する親父の後を魚籠を持って付いて行くのが子供の楽しみでした。セイゴ淵、アオヤはアユ釣りのポイントがありました。長瀞の舟下りの船頭さんと喧嘩をしないで済む場所です。セイゴ淵には大きなモクレンがあります。水が川底から吹き上げて来るのです。吹き上げて来る場所があれば、引き込まれる場所もあり注意が必要でした。鳴門の渦潮の川仕様です。
12.頭を西に向けた岩

下田野は荒川の右岸に位置してます。長瀞を含めたこの地域の変成岩は東西に傾斜を持ち西側が高いのです。川遊びでは対岸は足を滑らせ川に落ちることがあるのですが下田野側では滑らずに遊べました。また田野沢川左岸には下田野の地下水がこの傾斜のため湧き出してました。昔は田野沢橋近くでは冬湧き出した水で大きな氷柱を作ってました。
13.田野沢橋付近の滝

滝といえるような急な流れの岩場と淵があります。明治の20、30年頃の話と思われますがこの急な流れを遡上してきたノウメンズ(ウナギの幼魚)を箸でショウギに弾き込んで取っていたと言うのです。
荒川が海に繋がっていたころは沢山の多種の魚が秩父迄遡上してきていたのでしょう。昭和30年代には私も田野沢でノウメンズ釣りました。

普通の魚は此処の滝を登れません。上流にも魚がいますが、ある種、魚止めの滝です。ここより下流は荒川の魚が生息してました。アユもここまでです。湧き水の ある此処の滝つぼにはイワナ、ヤマメが夏の間集まっていました。大人たちはガラス箱と引っかけでアユを追い回して夏の暑さをしのいでました。
夏は田野沢いたるところに蛍がいました。タモ網などありません。竹ぼうきを持って出かけ、蚊帳の中に放して遊びました。草の中で光っているのは蛇の目だ。草むらには入るなと親から注意をされました。
橋のすぐ下の淵は七夕が終わるとその飾りを近所の人たちが持ち寄り流してました。流し雛とか昔から清める川、水だったのでしょう。
淵いっぱいに七夕飾りが積まれる景色がありました。
14.車(屋号) の水車

戦後、昭和30年前でしょうか。田野沢橋近くに水車があったようです。台風で流されてしまったというような話を聞いてます。今でも大きな玉石を積んだ石垣が残ってます。
15.マサキリ淵(マサカリ淵)

深い淵です。周囲が木で覆われている為に青い色をしてました。子供の頃、夕方にここに釣りに行こうとすると近くのお婆さんに「河童がいる」からと窘められたものです。ちょっと怖かった。その昔は田野沢橋に関はありませんでしたので、もっと大きかったという年寄りの話す景色が想像できました。
また、淵の東側のぐずれた穴には白い大蛇が住みその穴は赤城様に通じているとか?これも新たな伝説が生まれました。
私の子供の頃は、ギンタはいましたが、昭和30年初頭まではテングッパヤもいたと聞きます。生態系微妙に変化しているようです。

16.万年橋

ここには、古い田んぼの取水堰があります。水路は旧いずみ館の前を通り赤城様をぐるっと回って中道に続く水路が残ってます。その後関は上流部に移され万年橋で田野沢をくぐり、より広範囲に水路を巡らせ田野中に田んぼを作ることが出来たのです。万年橋の下にはちょっとした淵がありました。川ネズミがいました。毛に空気を纏い青白いその姿は奇麗でした。
17.オオゲの水車

今の田んぼの取水堰の上流数百メートルのところに道路の対岸側ですが水路跡が残ってます。たぶん取水堰あたりに水車があったのでしょう。大きかったと聞きました。
持田作夫宅前の沢、谷草の
小島宅下の沢にも小さな水車
があったと聞きます。
ここから取水した水で下田野一帯の水田の水を満たしていました。

18.岩坂のクヌギと赤城様のクヌギ

この2カ所には大きな根っこがあり、カブトムシ、クワガタムシ、カナブン等を捕まえに子供たちが集まりました。フエンドウというスズメバチのでかいやつから逃げ回り捕ってました。

その道下には大きな淵があります。岩坂、ネッコマグソ、谷津田、大曲、そして谷草の集落へ続きます。
昔の道は山側にあり坂道だった
のかもしれません。道を川側に
曲げて平にし、坂道を解消した
のかもしれません。
そして岩坂が残りました。
ここまでが1番耕地。
19.ゴミっつるべに石っつるべ
田野沢でバカザッコ釣りの定番の餌です。ゴミっつるべは蓑虫の水生版です。ほんとによく似てます。石っつるべは枝や棒を小石に変えたものですが。荒川のクロカワ虫程グロテスクではありません。水の中の石をめくって取ったのが川ムカデ、5cmくらいありました。確かにムカデに似てましたが置き針の餌にしてました。
20.荒川での魚釣りの餌

ピンチョロ、クロカワ虫、チョロ虫といったかな平べったいやつ。石をめくって捕って肩の当たりに付けといてあんま釣りしました。
メメンタ ロウは定番ですが川が増水した時かな?秋になるとトウモロコシの虫で深場ねらいです。大きいのが釣れました。春先、カジカのアワ子
を取り、塩漬けにしておいて秋、針に真綿で包んでセイゴに行くんだよ。でかいのが釣れるからと年寄りに言われました。
21.荒川橋梁


大正3年竣工ということです。地元と鉄橋のかかわりについて聞いたことは、上(カミ)の女氏はレンガを洗いに出たと 聞きました。レンガの強度を上げる為に藁を燃焼させたか、運搬の際に藁に包んだのかわかりませんが地元が誘致をしたり、地元に還元したりしたのでしょう。

22.西福寺

今のお寺は昭和30年頃に立て替えられました。本堂の格天井には田野素鳩さんの画かれた絵が組み込まれてます。立派なものです。素鳩さんは襖絵等も多数残し、あんどん祭りのあんどん絵も横田(橋元屋)さんと手分けして書いていたと聞きます。



「生を得て世に功なく・・・夢ぞ今宇宙に飛ぶ」辞世の歌だそうです。
用土新左衛門、西福御前からの
伝承が残ります。もともとは前山にあったと聞きます。赤城神社の行燈祭りは西福寺が始まりといわれ、祭日は春彼岸の三月十九日でした。



明治15年皆野に大火があり大淵から始まった火事は皆野、三沢、東秩父そして、戻って下田野の上半分を焼いたと聞きます。この時の火事で西福寺も消失したのだそうです。西福寺の入り口に梅の古木がありますがこの火災での消失を免れ、火傷を負いながらも生き延びて今年もたくさんの花をつけてます。そういわれて眺めればこの辺りで一番の古木です。
23.赤城神社

赤城大神社は大山祇命、大己貴命、豊城入彦命の三柱をお祭りした神社で秩父庄司重忠が社殿を造営して、境内に多くの木を植えたといわれます。赤城神社には大きな木が沢山あります。昭和の台風で多くの木が倒されました。重忠檜といわれるような木はありませんが楓、杉、アベマキとかいう大きな木があります。
子供の頃はよい遊び場でした。そりや竹馬そして、大きな木の洞に巣をかけた鳥の雛なども捕っていました。神楽殿の下にはアリジゴクがあり、蟻を落として遊んだのですがウスバカゲロウとかアリジゴクとは言わずテッコハッコと呼んでました。

掌の上をバックしていくテッコハッコ、こそばゆい感じを覚えてます。

子供の頃は神様が近くにいて弓矢を作って子供たちが競ったものでしたが年寄りに神社に向かって矢を射るなと咎められました。



現在は、大行灯5基、行灯約400が赤城神社の春の例大祭の折には火が灯されます。



この旗杭基礎には大正時代の年号が記載されてますが県道が整備された時、前山道側に旗杭ごと移設されたと聞きます。
旗杭基礎は大正2年
荒川橋梁竣工大正3年

旗は3,4番耕地で昭和3年に作る。作者は田野素鳩です。



赤城神社の小道。この田野沢よりに赤城神社をとり囲むように水路が残ってます。取水口は万年橋。
現在は、万年橋のところの田野沢の川底を水路が通り皆野町スポーツ公園まで流れてきます。

24.忠魂碑の桜

井戸の大手の桜の子供だと聞きます。白鳥村の下田野また、天神山の下の小学校まで通った時代もあり井戸、岩田といった地域とのつながりが強い時代がありました。
25.二本木峠の相撲大会

東秩父、三沢、白鳥村とかいう集落が集まって昭和の初期の時代でしょうか相撲大会が開かれたということです。二本木峠に行くのに新作出口から尾根づたいに平草経由だったということです。
26.竜ヵ谷城でのササラ(獅子舞?)
