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下田野の不確かな伝承続編

大正3年という年

秩父鉄道の荒川橋梁が完成し、初代の親鼻橋が竣工しました。近くで次々に大事業が行われていたのです。


 



僅か数百メートルの距離で鉄道橋、道路橋か掛けられ秩父が様変わりしたと考えると驚きです。

 

 

子供の頃初代の親鼻橋のレンガの橋脚が爆破解体された記憶があります。


 

荒川橋梁の建設中の写真、手前が下田野、対岸が上長瀞。

荒川が増水すれば、足場は簡単に流れます。ここで作業していた人たちは数百m上流の親鼻橋の建設を見ていたのかもしれません。

 

 

この写真の裏書には大正3年、5月と書かれています。

親鼻橋が大正3年8月竣工とあります。8月には荒川橋梁の橋桁も繋がっていたと想像できます。

  

写真左下には屋形船が数隻見えます。荒川の舟下りが既に始まっていたということでしょうか。屋形船を仕立てて工事現場の視察でしょうか。若葉の季節、華やいだ雰囲気が感じ取れます。

 

大正3年は第一次世界大戦参戦、東京駅開業そんな年です。

地元は、秩父の人たちは何を夢見たのでしょう。

 


マサキリ淵の白蛇続編

 


マサキリ淵に住む白蛇の穴は赤城様に続くと話をすると、ある方から日光の神様と赤城の神様の話に通じると言われハッとする。戦場ヶ原だ!神様の戦い。

青く深い河童が住むといわれるこの淵を怖がらせる話かと聞いていましたが面白い、話が進んだ。確かに赤城様の祭神は大己貴命(大国主命)豊城入彦命(蝦夷征伐をした)が祭られている。この地を訪れたヤマトタケルが豊城入彦命も祀れといったのだとか。

 

カラフト淵

 

谷津田にはいくつかの取水堰があります。蝦夷の言葉かもしれません。アイヌ民族の言葉では川の河口に関わる言葉だと聞きます。(AIの回答です)新作出口の上流から田野沢右岸(大曲下)を流れ、田を潤しカラフト淵の近くで再び田野沢に合流したのです。



 

 

山から流れ出る幾つかの沢と取水堰が谷津田の田を潤したのです。田野沢に面する大きな石積みも立派です。水路を造り、石垣を積み、田を作る。時代は幾つかあったのかもしれませんがカラフトブチの名が今に残る理由が解った気がしました。

谷津田の田野沢両岸には立派な石積があります。日々の糧を得ることの重さを感じます。



姨懐(オバフトコロ)という小字名



姨懐という字名がありますが「谷津的なくぼ地」「奥まったくぼ地」等を表しているとか。理解できる地名になりました。現在の有料道路の上部辺りを指している小字名です。

 近くに祢津木株という字名があります。漢字4字が珍しいですが祢という字は神様に関わる事のようです。津は川を渡る場所とか。昔、向谷津田に川を渡るための丸太が3本渡してありました。向井谷津田下流の田野沢が曲がる場所にも取水堰がありました。今は、野生動物が行きかう谷津田ですが、人々の暮らしを支えてきた場所です。

地元でネッコマグソと言う場所があります。名前の由来は解りませんが面白いです。イワサカ、ネッコマグソ、大曲、谷草です。字名では大曲の次は山神です。谷津田の右岸には神様が居られたのかも知れません。

 

 

新田開発と百足


秩父で稲作が行われてきたのは横瀬や下田野が古いと聞きます。河岸段丘などに代表される地形で稲作には適していないのだと。下田野では前山に近いところは山からの湧水があり、表層近く迄、変成岩があり水をためた湿地がありました。長瀞町の岩田の由来と同じです。家でも上(かみ)の田はヒルがいて田植えの時期は嫌でした。下田野の田んぼの真ん中に中道がありました。おそらく中道から下流が新田開発されたところで、水源は田野沢です。確かではありませんが、田野沢からの水路を引く際、百足のはった後に水路を設けたら水が流れたのだとか。万年橋から赤城様をぐるっと巻いて古い水路が中道まで続いていました。ムカデの話ホッとします。怖い怖いムカデ、やっぱり赤城様です。昔の人々の余裕、機知、いろいろ感じます。


道路と赤城神社の間に水路赤城神社脇




森下の水路赤城山近くでは「ムカデ、ムカデ赤城に帰れ」というそうです。ここは「赤城さま、赤城さま」と言って殺処分。


赤城大神社の鳥居と百足


赤城神社の鳥居には百足が描かれていると聞きましたが確認はできませんでした。明治23年(1890年)庚寅の年に作ったと拝殿の額に記されています。

 

唐破風の下辺りに描かれているのかもしれません。


 

群馬県館林市の赤城神社には百足の彫り物が沢山あるそうです。


 

これが百足を表しているように見えますが

 

田野素鳩氏について

本名は一衛、明治21年(1888)白鳥村下田野で生まれた。若くして絵画を黒沢墨山に彫刻を大島皆山に更に漢学と書道を金崎の山田静修に師事した。成人してからは寺子屋で青少年に教え育成に力を入れた。さらに、27歳より没年までの間に28年の永きに亘り町、村会議員に就任し地域社会に貢献した。


第2時世界大戦中の一時期、東京に移住していたが、戦後は郷里より岐阜、愛知、長野方面に出向いて画業を行う。晩年は郷里に定住して後進の指導と絵画の執筆を行った。



三沢の二十三夜寺、当所の西福寺、長瀞の宝登山神社社務所の格天井は、その頃のものである。著書に「大正礼儀作法」 「佐久間象山」がある。


昭和35年(1960)73才で没した。その、いまわのきわに辞世の歌を残した。

「生を得て世に功なくいたずらに刻を過ごして夢ぞ今宇宙に飛ぶ」

(文・・・田端籐次)

 

 

 

 

 


西福寺の格天井

大行灯絵


田野素鳩氏の子や孫が大行灯の絵を描きました。龍や虎が長く下田野行灯祭りを照らしていました。

 


田野素堂氏


 

 

田野茂樹氏


猫のお札と大日神社

少し前です。5月5日の祭りに猫のお札をいただきに新潟から来た若い女性お二人にお会いしたことがあります。猫のお札は珍しいのだとか。大日神社のお祭には福引が行われ、今でも5月8日、大日神社と書かれたブリキのバケツが家にあります。


御神燈料を納めて、いただく御神燈守の包みの中に猫のお札があります。

いわれを尋ねると養蚕をしていた時、ネズミが繭を引いていかないように猫のお札を頂いて帰るというのです。生活を支えた養蚕、そして、猫のお札です。

 

 

 当地では、昭和40年代頃迄、養蚕が盛んに行われ、蚕棚の間に布団を敷いて寝る。蚕が桑の葉を食べるザワ、ザワという音を覚えてます。春子、夏子、秋子、晩秋、晩晩とか言いました。お蚕様です。お子様です。

 

小正月は繭玉を飾りました。農家は家自体が養蚕の為の小屋です。そして、豊作を願った大日様。猫の役割は変わったのかもしれませんが残したいお札です。

御神燈守の包みの中にもう一つ、竹に付けられたシデのようなものをいただきます。宮司に聞くと畑の隅に立てて豊作を祈願するのだと。これと似たものを西福寺の施餓鬼法要の時、塔婆と一緒にいただきます。青、赤、黄色、白があります。やはり、畑の隅に立てます。生活の中に神様、仏様が居りました。

写真に御神燈の行灯がありますが大日神社の参道に6、7個の行灯が飾り付けられております。かつて金毘羅神社が愛宕山の山頂に祀られていた時も同様に行灯が燈されており、行灯というだけで親しみを感じます。


下田野行灯祭りデジタルアーカイブ

 

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