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赤城神社の質銭(しちせね)の謂われ

赤城神社の質銭(しちせね)の謂われ

 

質銭の起こりは、今より百余年前、元治元年の夏当村に疫病が流行った折、赤城神社別当所西福寺の住職秀敬と称する行者、疫病平癒の祈禱を成し、薬札(薬代のこと)に困る者達へ銭百文を貸与へ、病人の体を赤城様の質に取りついた処、その銭を借りた者は忽ち無事快癒してしまった。

以来病気に罹ると村人はもとより近村の者まで、又何の病気であっても赤城様の銭を借り質に成る様になり、それに依って多くの人々の病が癒つた。

銭の返済は癒つて後動けるように成ってから利息を百文加へて元利合計二百文として返した。

明治二年神仏分離に依り質銭は赤城神社神職大嶋若記(わかき)へ引き継がれ、其後百文は1銭に改められた。貸付は随時病人の出た都度貸与へ、返済は癒つて後の春祭りに日とされる様になった。

明治七年藤谷淵村に住む教覚様(きょうがくさま)と称する小林市右衛門、赤城神社の社掌となる。教覚様は非常に法力の強い行者で、呪釘を抜くのに道具は使わず、印を結んだ其の人差指で釘の頭を咬み、そのまま引抜いたと語伝へている。

この教覚様に依り質銭は益々広まり近村はもとより郊外から迄借りに来る様に成り、体を赤城様の質に預けて置けば疫病に罹らないと謂れ又、「赤城様の氏子からは三人と疫病を出さない」とも謂れている。病は癒えても引続き借換替へて、年々質に成る者が多くなり、明治二十年頃は素の人数五百を超し、講中まで出来て賑わったが明治末年に講中は廃止された。其後大正三年、質銭は春の大祭にのみ貸付返済を扱う様になり、大東亜戦後の貨幣価値変動に依り金額は逐次増されて現在に至った。

 

赤城大神社略記より

 

現在は行われておりません。

下田野行灯祭りデジタルアーカイブ

 

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