
赤城大神社略記
埼玉県秩父郡皆野町大字下田野鎮座
赤 城 大 神 社 略 記
赤城大神社社務所発行
赤城大神社御祭神
大山祇命(おおやまつみのみこと) 山を統(す)べる神
大己貴命(おおならむちのみこと) 国土開拓経営の上
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと) 上毛野国(かみけのくに)の国造(くにのみやつこ)の祖(そ)
由緒
仰当社は人皇(じんこう)十代崇神(すじん)天皇の皇子(みこ)豊城入彦命詔(みことのり)を奉じて上毛野(かつみけの)国の君として同国に下向の後隅々当秩父郡へ遊猟に入らせしの途当所に休憩し当村の鎮守として大山祇命、大己貴命を奉祀せられしを以て当社の起こりとす。
其後、十二代景行天皇の御代四十一年皇子日本武尊御東征の帰途当社へ詣拝せられ豊城入彦命を合祀あらさせられし貴重なる由緒を有する神社にして神徳赫云(かくかく)として多々星霜を累ねたり。
沿革
建久年間
秩父庄司重忠、当社を深く崇敬し社殿を造営し境内に多くの樹木を植え付ける。
今なお社頭の神木重忠檜と称するは周囲二米七十糎に及ぶ。
去る昭和四十一年秋の台風に依り、大方の古木は倒されたけれども尚数本の老樹が残っている。
天正八年(四〇三年前)
鉢形北条氏邦の臣用土新左衛門正道、当所に陣屋を構えて居り
当社を信仰し社殿を新築し社領を納め、当所の西福寺を以て別当職となす。
天正一八年(三九三年前)
鉢形落城、北条氏滅亡と共に当社も其余響を蒙(こうむ)り一旦衰退に趣き、社殿は破れ社領もろとも西福寺の所有に成る。
安永七年(一九五年前)
氏子に依り社殿を再建する。現在の中宮である。納められていた棟札に依り明らかとなった。
寛政六年(一七九年前)
社殿に上屋をかけ、本殿となし拝殿を造り、尚神楽殿も造る。現在所蔵せる古い額は其時掲げたものである。
元治元年(一〇九年前)
別当所西福寺住職の秀敬と称する行者に依り質銭の貸出を始める。
明治二年
神仏分離に依り別当所を廃し、神職を設け祭祀を行う。
時の神職は戦場の大島若記であった。この年より行燈祭りは赤城神社の祭りとなった。
明治五年
入間県に於いて村社に列せられる。
明治八年
崇敬者の奉讃に依り本殿拝殿神楽殿等の改築を行ふ。
明治四〇年
勅令に依る神社合併につき、当所の向戦場に鎮座せし天神社及び愛宕山頂鎮座の愛宕社を当社境内へ引移し末社に加え祀る。
昭和四一年
秋の台風に依り境内の樹木建物等に甚大の被害を蒙り、古木の大方を倒され余儀無く伐採し、建物も社務所、神楽殿等を修理復旧す。
昭和四七年
本殿の改築と共に幣殿を造り加へ、更に拝殿も修理して十一月一九日完成した。
末 社
稲荷社
祭日二月 初午 今は行はぬ
祭神 保食命(うけもちのみこと) 食物の神で米を作る農耕の神様である。
西福寺の鎮守神として寺の境内に鎮座せしを神仏分離の明治二年一二月、
赤城神社の境内に引移し祀り末社とした。
疱瘡神
祭日 旧暦六月二四日
祭神 小名彦名命(すくなひこなのみこと) 医薬の神である。
元より赤城神社の境内に鎮座し、疫病除けの神である。
現在は七月二十日に疫病除けの祭りを行っている。
八幡社
祭日 不明
祭神 仁徳天皇
元より当赤城神社境内に鎮座す。
天神社
祭日 旧暦一月二十五日 今は行はぬ。
祭神 菅原道真
当所の向戦場に鎮座の無格社にて明治四十年三月、神社合併につき引移し祀る。宝物に懸仏が有り嘉吉二年と刻付けて在る。(五百余年前)
愛宕社
祭日 旧暦三月二十四日」今は行はぬ。
祭神 迦具土命(かぐつちのみこと) 火の神で火防の神様である。
当所の愛宕山頂に鎮座せしを明治四十年三月、神社合併につき引移し祀る。
祭 日
一月1日 元旦祭
二月節分 節分祭
三月十九日 大祭 行燈祭りを行いひ質銭の貸替を行ふ。
三月春分の日 戦没者慰霊祭
七月二十日 疫神除祭
十一月十九日 祭り
十二月二十八日 大祓
赤城神社の質銭(しちせね)の謂われ
質銭の起こりは、今より百余年前、元治元年の夏当村に疫病が流行った折、赤城神社別当所西福寺の住職秀敬と称する行者、疫病平癒の祈禱を成し、薬札(薬代のこと)に困る者達へ銭百文を貸与へ、病人の体を赤城様の質に取りついた処、その銭を借りた者は忽ち無事快癒してしまった。
以来病気に罹ると村人はもとより近村の者まで、又何の病気であっても赤城様の銭を借り質に成る様になり、それに依って多くの人々の病が癒つた。
銭の返済は癒つて後動けるように成ってから利息を百文加へて元利合計二百文として返した。
明治二年神仏分離に依り質銭は赤城神社神職大嶋若記(わかき)へ引き継がれ、其後百文は1銭に改められた。貸付は随時病人の出た都度貸与へ、返済は癒つて後の春祭りに日とされる様になった。
明治七年藤谷淵村に住む教覚様(きょうがくさま)と称する小林市右衛門、赤城神社の社掌となる。教覚様は非常に法力の強い行者で、呪釘を抜くのに道具は使わず、印を結んだ其の人差指で釘の頭を咬み、そのまま引抜いたと語伝へている。
この教覚様に依り質銭は益々広まり近村はもとより郊外から迄借りに来る様に成り、体を赤城様の質に預けて置けば疫病に罹らないと謂れ又、「赤城様の氏子からは三人と疫病を出さない」とも謂れている。病は癒えても引続き借換替へて、年々質に成る者が多くなり、明治二十年頃は素の人数五百を超し、講中まで出来て賑わったが明治末年に講中は廃止された。其後大正三年、質銭は春の大祭にのみ貸付返済を扱う様になり、大東亜戦後の貨幣価値変動に依り金額は逐次増されて 現在に至った。
行燈祭と西福寺
行燈祭りは西福寺に於いて始められた。
西福寺は
今を去る事4百余年世は戦国の頃、当所の龍界山頂に龍界城が在り、鉢形北条氏邦の臣用土新左衛門城主となり、今は前山と呼ぶ共同墓地の西隣りに館を構へ、此の地方一帯を支配して居り、内室西福御前の御霊を祀って寺を建て、要害山西福寺と称したと語伝えられている。
行燈祭は
同じ時代の永禄十二年、甲州武田信玄の勢と当所の小字「戦場」に於いて激しく戦って討死した将兵の御霊を弔って元亀三年西福寺の大樹の上高く竿を立て高灯籠を掲げ、下には多くの行灯を燈してお祭をした。
其後江戸時代の初め元和年中(三百五十余年前)高灯籠を風に落とされ、其の火に依り寺を焼失した為現在の地に寺を移し再建し山号を改め田谷山西福寺と成し、高灯籠は廃し百八灯の行灯のみ燈し、赤城様のお祭をも同時に行う様になったと謂れている(今は山号を田野山と書くも田野(たの)にあらず田野(でんや)である。)
其後漸時行灯の数を増し、寺より赤城様に達する二つの道筋に二百を越して燈されるようになり、明治二年神仏分離の節、行燈祭は赤城様の祭となった。
以来益々行灯の数を増し、今では 三百余灯となり、討死んだ将兵に、おのも、おのもの先祖の御霊に、平和と息災を願う燈し火は下田野の里を明
りの輪に結び、春の彼岸の宵を幾歳せ変わらず燈され続けているのである。